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本田和子さん 童話作家
あまんきみこさん

あまん・きみこ

 1931年、旧満州に生まれる。 敗戦で帰国。
結婚後、日本女子大学児童学科の通信教育部に入学。 與田準一の紹介で「びわの実学校」を知り、作品を発表。 1968年、同誌に掲載した短篇をまとめた『車のいろは空のいろ』を刊行、日本児童文学者協会新人賞を受ける。 後に「びわの実学校」同人となる。 主な作品に『ひつじぐものむこうに』『きつねみちは天のみち』等。 『こがねの舟』で旺文社児童文学賞、『おっこちゃんとタンタンうさぎ』で野間児童文芸賞、『だあれもいない』でひろすけ童話賞、『ちいちゃんのかげおくり』で小学館文学賞を受賞。



誉められたり、叱られたり
    自らの育ちを「待つ」師に出会う


■本の中に自分を見つけると、とてもうれしい!
 
 『車のいろは空のいろ』で空色のタクシーの運転手「松井五郎さん」を世に送り出したあまんさん。
 「本を読むということには、2つの意味があると思うんです。ひとつは、多くの世界を知る、ということ。もう1つは、本の中に自分を見つける、ということ。本の中に自分を見つけると、とてもうれしくて、何度でも読んでしまうものなんですよね」。優しい声で、まるで少女時代そのままに話す。
 病気がちで、空を遠く眺め、雲にお話を聞いていたという。「今振り返れば、その時から“空色”が私の心の中に染み渡っていたのかもしれませんね」。
 作家になりたい、と思っていたわけではない。ただ、宮沢賢治の世界観が好きだった。そして、母として、子どもにお話を聞かせるのが好きだった。
 「子どもにお話を聞かせるでしょう。子どもが喜ぶと、もっと喜ばせたくて、お話をもっと大げさにしてしまうんですね。すると子どもは喜ばないのよ。以前聞いたときはそうじゃなかった、と不満そうなのね。子どもって、同じ言葉・同じリズムを聞くことで、心が落ち着くんじゃないかしら」。
 記録のために、お話しを書き留めておくようになった。書くことも、もともと好きだった。
 
 

本田和子さん
■恩師・與田準一氏との出会い

 高校卒業後結婚したものの、子どもを育てながら「もっと学びたい」と思っていた。そんなあまんさんの目に飛び込んできたのが、日本女子大学児童学科の通信教育部の新聞広告。早速申し込み、母親学生となる。そこから童話作家への道が自ずと開けていく。
 子連れで通っていたスクーリングで提出したレポートが指導教官の目に止まり、声をかけられた。「あなた、 與田先生のところにいらっしゃい」。その後、 作詞家・與田準一氏の元に通うことになる。
 
 
 「與田先生とお話しているでしょ、私が『お茶って、口から離したときに初めて味がするものですよね、先生』と言うと先生は、ほほう、それは面白いね、とおっしゃるの。ふーん、こういうことが面白いんだ、と私は思うわけですね」。
  勿論、誉められるばかりではなかった。
 「叱られたこともありましたよ。ある本の感想を聞かれたとき、私が『何かが足りない』と応えましたら、『何か、とは何だ。言葉に出来ないということは、考えていない、ということだ』っておっしゃって。その時はびっくりしてしまって、涙がボロボロ出てしまったんですよ。誉めたり、叱ったりがお上手だったんですね」。
 
 


■自ら育つことを「待つ」
 
  あまんさんの道を左右する言葉をさり気なく口にすることにも長けていた。
  「ある時、先生に、童話雑誌『びわの実学校』には、読者の投稿覧があるんですよ ね、と言われたんですよ。それを、ぜひ投稿しなさい、と言われたような気がしまし て」早速、運転手松井さんが初登場する『くま紳士』を初投稿、初掲載される。それを読んだ與田氏は、今度は「松井さんは、これからいろんなお客さんを乗せることが出来ますね」と示唆する。「あ、そうなんだ、と思いましてね。それから松井さんが走り、途中で止まり、いろんな人を乗せるようになって、お話が少しづつたまっていったんですね」。山猫や子狐が松井さんと出会い、『車のいろは空のいろ』という形になっていき、多くの子どもや大人の心を楽しませることになっていく。あまんさんが自ら育つことを「待ち」、その時々で示唆した與田氏のスタンスは、学校で多くの子どもらと接する先生たちにおおいに参考になりそうだ。

 



(第一回小学校国語教育セミナー・文化講演「あまんきみこさんと語ろう」より。聞き手・児童文学研究者宮川健郎先生)



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